愛犬ノエルがくれたもの2
〜私の悲嘆のプロセス
るんば(2002.8月)
ノエルを亡くし、一番辛かったのは最初の1週間〜3ヶ月くらいだったと思います。
自分を責めた原因がいくつかありました。
*ノエルがカーペットをかじっていたことを軽視して、先生に伝えるのが遅れた事。
*お見舞いに行ってあげなかったこと。
*たった一匹で逝かせてしまったこと。(そばにいてやりたかった)
*治療中、死の間際まで先生とうまくコミュニケーションをとれなかったこと。
また、新しく子犬を迎えるにあたっての不安もありました。
罪悪感と自責の念とノエルの苦しそうな姿が頭から離れない日々でした。
そんな私の気持ちを救ったのがチャコとの散歩でした。
ノエルが亡くなってからチャコは全く食べなくなってしまい、2日後くらいに私が励ましながらようやく食べ物を口にしました。
チャコなりにノエルがいなくなった寂しさを感じていたのだと思います。
引きこもりがちだった私があるとき、頼まれて夕方のチャコの散歩の行く事となりました。気持ちを切り替えて、ノエルの遺品の首輪を一緒に持ってでかけました。
チャコとノエルがお気に入りだった山道の散歩道をどんどん登っていきました。一汗かいて一休みをしたときに、チャコにノエルの首輪を見せました。
すると、チャコが嬉しそうに笑顔になって、しっぽをぱたぱたと振ったのです。ノエルのにおいがわかったようでした。
張りきって先導しながら、時折振り返っては首輪の入っている小さなかばんを鼻でつつくチャコ。
なんだか嬉しくなって、ノエルも一緒に散歩している気持ちになりました。
ノエルが亡くなってしばらくして、新しい家族のココアとの暮らしが始まりました。子犬との生活はとても楽しく、毎日が充実したものでした。
ですが、そこに落とし穴が・・・
面影がノエルにそっくりだったココアでしたが、私はココアはノエルの代わりではないと自分に言い聞かせていました。
それは全くその通りとなり、ノエルを亡くした悲嘆を乗り越えるのは全く別の作業となったのです。
ココアとの生活はとても楽しいはずなのに、仕事中などにノエルの苦しむ姿が浮かんでくるのです。他のことをしていても自責の念がやむ事はありませんでした。そんな思いが2ヶ月くらいは続いたと思います。
自分がどこかおかしいのかと本気で思ったほどです。
ペットロスの本を読んだりして考えだしたのもこの頃でした。
すでに私の悲しさを親身になって聞いてくださった方もいました。
とても励まされ、もう大丈夫だと思ったのにどうしてだろう?
家族は、ココアを迎えたことで私がペットロスにならなくて良かったと喜んでいました。
私は、家族の前では落ち込んでいるそぶりは見せないようにしていました。
もう一度、きちんとノエルのことを考えるときなのかもしれないと思いました。
私にとってノエルがどんな存在だったのか、ノエルを亡くしたことはどんな影響があったのか、何に関してそんなに自分を責めているのか?
徹底的に考えました。そしてわかったこと・・・
結婚して同居して、知っている人のいない土地に移り住んだ私にとってノエルが心の支えだったこと。(子供がいないし〜^^;)
ノエルを通じて家族の間に笑いがあり、近所の方とも気軽にお話するようになったり、潤滑油の役割をしてくれていたこと。
ふれあい活動などで様々な人々と知り合えたこと。
病気や障害などを一緒に乗り越えてきた仲間だったこと。
私自身の家族が命を危ぶまれる病気になったとき、辛いときなど心の慰めになってくれたこと。
あげたらきりがないくらい、私はノエルから色々なものをもらい、感じ、感謝していたのだと思いました。
また、数年前に未完了の悲嘆があり、それがノエルの死を通じて浮上してしまったのを知りました。様々なことがノエルの死を複雑な悲嘆にしてしまっていたのです。
それが理解できると、肩の荷がす〜っと軽くなったような気がしました。
自分の心の中を知ることは辛い作業でしたが、それを終えて初めて一歩前に踏み出せたような気がします。
全ての悲嘆を味わいつくした後、今ではノエルの思い出の楽しかったことをより語れるようになりました。
夏はスイカやメロンやきゅうり・トマトが大好物で、うんちにびっしりスイカの種が出てきて腰が抜けるほど驚いた事。
散歩中に真っ赤なおいしそうなトマトの前に座り込んでしまい、畑の奥さんからお裾分けしていただいて、口を真っ赤にして食べた事。(無農薬でした〜)
セミやカナブンが大好物でこっそり食べていたことなど。
まるで昨日のことのように、生き生きとユニークだったノエルの姿が浮かんできます。どの姿もいつもにこにこ笑っていて幸せそうでした。
私もとても幸せでした。
これが、ノエルが私に遺してくれた贈り物なのだと思っています。
実際に悲嘆を乗り越えるのに約1年近くかかっています。
でも、悲しみを乗り越えるのに、長い短いはないんです。自分が悲しい間はうんと泣けばいい。いつか、涙が全ての悲しみを洗い流して,天国のあの子たちの笑顔を思い出せるようになる日まで。
その日はきっとやってきます。
その日がやってくる長さは人それぞれ。
誰かが決めてくれるものではなく、自分自身で迎える日なのだと思います。
悲しみを押さえこんだり、他のことでごまかしたりすると、もっと悲嘆が複雑化して長引くこと、新しい犬を迎えるには、悲嘆のプロセスをちゃんと乗り越えてからの方が好ましいかもしれないと思いました。
私自身は、ココアと出会えて本当に支えられましたが・・・
ココアや猫達には随分心配をかけました。
「ノエルがいない〜」と泣いてしまう私を心配して寄り添ったり、涙をなめてくれたものでした。犬と猫がすっとんで来るものですから、なんだか最後には笑っていましたが。
また、思い出を手記にしたり、亡くなった子にあてて手紙を書くのもとてもいいと思います。気持ちが整理できます。
亡くなった子の記念品(絵など)を作るのもいいかと思います。
最後に、ノエルが亡くなってから不思議なことがいくつかありました。
その(1) 鼻面つん!事件
亡くなって10日目と20日目くらいに、何にも考えていない無意識なときに、いきなり左腕を濡れた大きな犬の鼻がつん!とつつくのです。そばにはもちろん犬はいません。ノエルのいたずらか!?
その(2) お犬様事件
実家の父ががんに倒れ、手術と抗がん剤治療をしていたのですが、ノエルの死からまもなくして、CTスキャンで残っていた腫瘍が消えていると電話がありました。
帰省したとき、ノエルと私が写っている写真を父にお守りで渡してありました。父と母いわく・・・「お犬様が悪い所を代わりに持っていってくれたんだね・・・」おいおい・・・^^;偶然だと思いますが、両親が感謝しているのでそのままにしています。幸い、現在父は仕事にも復帰し元気にしています。(^^)
その(3) 夢でお別れをしにきた事件
ノエルが亡くなって約1ヶ月後、夢で見ました。
夢の中でもノエルが亡くなっているのを知っています。
多分霊(?)のノエルは私のいく先々について歩くんですね。
夢で一緒だった家族や友人にも見えています。
ですが、広〜い草原のあるバス停で友達とバスを待っていたら、それまでずっとそばにいたノエルが草原を走って行ってしまうんです。
「ノエル!」と呼ぶと1回振りかえって、とても悲しい顔をして、再び走っていってしまいました。
その後ろ姿を見送りながら、もう天国へ行かなくちゃならないんだと思ったのを覚えています。
その夢の後はとってもすがすがしくて、さわやかな気持ちでした。
ちゃんとお別れに来てくれたのにも関わらず、悲嘆でぐずぐずしてたのはかくいう私です。(^^;)
でも、きっともう大丈夫。
天国のノエルも安心している事でしょう。
しっぽのある天使〜ノエルの納骨を終えてへ
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